大牟田は、石炭という恵まれた資源に |
よって日本や世界から期待される大変 |
活気のある町でした。 |
豊かなくらしエネルギーのために石炭 |
に熱い情熱と誇りを持った人々が |
たくさんいました。 |
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今はもう、石炭を掘っていない |
けれど、石炭が築いた歴史は、 |
大切な遺産となって町に |
息づいています。 |
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1889年(明治22年) 三池炭鉱が「三井」のものとなる |
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明治新政府は一刻も早く列強に並び立つため富国強兵・殖産興業に力を入れ、鉱業や造船、繊維などを官営事業として行っていました。しかし、これら官営事業の多くは赤字経営から脱することができず、また、明治10年(1877)の西南の役以降インフレが進行し、政府は官営制度の見直しを迫られます。明治13年(1880)「工場払い下げ概則」の発布によって官営事業の払い下げが行われるようになりました。
図は官営時の三池炭鉱です。 |
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多くの官営事業が赤字であった中、三池炭鉱は相当の収益をあげていました。官営の三池炭鉱は国庫を潤していたので、政府は手放したくはなかったのですが、官営事業の払い下げが大勢であったため、ついに三池炭鉱も払い下げられることになりました。しかし、他の赤字官営事業の指名払い下げとは対照的に、競争入札により払い下げられることになり、さらに最低入札価格は400万円と示され、前例のない高い入札価格でした。
写真は三井に払い下げられた頃の三池炭礦社です。 |
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明治21年(1888)8月1日、大蔵省会計局において公開入札が行われ、結果は佐々木八郎(三井が名を借りた人物)が一番札455万5千円で落札し、二番札との差はわずか2300円でした。この落札金額を米価をもとに現在の価格に換算すると約502億円となります。明治22年(1889)1月1日三池炭鉱が三井に払い下げられ、團琢磨を事務長とする三池炭礦社が設けられました。
写真は三池炭礦社事務長に就任した頃の團琢磨です。
参考資料
大牟田市史、男たちの世紀、石炭の技術史摘録
写真 團家アルバムより
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